一位になれなかった

   悔しかった3位

   若い頃何をしても一番という経験が無かった、、中学の時、陸上競技の地区代表に、種目は走り高跳びだった、当時
   体操部に所属していて身長はあまり高くなかったので限界もあった、初めて出た市の大会では5位、できれば棒高跳び
   をやりたかった、先生に直訴したところ(危ないからやめときなさい)と言われた、高校に入り、バトミントン部に入る、
   体育祭でたまたま走り高跳びにでたら陸上部の先輩から声を掛けられ即入部、練習が厳しいと聞いていたが興味の方が
   大きかった初めて出た新人戦は県6位、既に心は棒高跳びに向かっていました
   バトミントン部はレギュラーではなく補欠だったんです、偶々誘ってくれた先輩が中学時代で棒高跳びをやっていた
   これが幸いして色々指導をうけて試合で戦うようになった、今でもその先輩には感謝してます

   初めてでたのが2年生の時、部室にあった竹で出たが時代はもうグラスファイバーの時代に入っていた、当時高価なポール
   は部費で買えるわけにはゆかず、順位は6位だった、6位までが東海大会へ出られる、学校側もそれではカッコ悪いと
   特別費で1万のポールを購入してもらったけど、当時日本製は性能が悪く、曲がらずすぐ折れる、それでアメリカ製のポール
   を買うためにバイト生活に突入、教科書は先輩からもらい、自分の頭は自分でやっていたし、見よう見まねで覚えた
   散髪は友達の頭を50円もらいやっていた、日曜日には親戚の海苔工場で働いた

   ポールが届いたのが3年の夏、当時のお金で3万なんぼだった思う、もう高校生活最終の大会になっていた、そこで出した
   成績は3位だった、優勝は10センチ上の3メートル80、その試合で終ってしまったんです、あと半年あれば良かったのにと
   思った結果でした、今でも当時の悔しかった思いは夢にでてきます、何としたら勝てただろう、その後の生活に大きく影響
   したのは事実なこと、考えて見ると3位だったから良かったのかも知れません

   ゴルフ、カラオケ、ボウリングにて80勝

   過去の悔しさがあった為か、その後、優勝が通算80回になる、その中で主な賞は平成7年度作詞家(まさと大賞;優勝、平成7年度
   年間カラオケチャンピォン大会準優勝、1998年度日本カラオケ大賞(審査員特別賞)、平成10年度ボウリング年間チャンピオン
   大会王座決定戦:優勝、趣味の域でやっていたので仕事はあまり休むことはなかったが
   
   趣味の世界も限界も感じ、それほど大きなタイトルを取ることも無かった、趣味とは実益には繫がらないもの、本業とは区別した、そう
   仕事を休んでまで趣味に走ることはできないんですね、ネットのホームページもかれこれ15年ぐらいになるがまだ5合目、モデルに
   なってもらったお客様「には感謝しきれません、 一人一人認可してもらいながらアップしてます、始めた当時、ソフトを使いながら
   ですが教えてくれる人が少なく、殆どが独学状態、メカには殆ど無知な自分でしたけど、大分カッコがついてきましたけど、順位を
   付けるとまだ6位でしょう、この世界も奥が深くまだまだひよっ子の域をうろついて居るようにも思えます、一つ一つ確実に進歩して
   行きたいものです。



                                      

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